そう言われると嬉しいなあ。原先生は原先生で、紙の上にそういう想いを描かれていた。僕たちは僕たちで声によってそれを表していた。ザコへの思い入れの共通点というか、そういう部分があったんだねえ。
──ええ。正直な話、原作を見てもアニメを見ても、ここまでザコや脇役が際立ってる作品って無いと思うんですよ。記憶に残る登場人物の数で言えばナンバーワンというか。
それはあるかもしれませんね。僕がやった数えきれない断末魔も、言ってしまえばすべて脇役。脇役でここまでやった作品は他に無いです。
──それこそ、ラオウとケンシロウが闘ってるだけの話じゃ、ぜんぜん面白くないですもんね。
ドラマ性が無いですよね。言ってみればザコたちが、いかにメインキャラクターたちを盛り立てるか。ようするに神輿(みこし)を担いでくれてるわけじゃないですか。あとはメインキャラクターが持っている人間のエゴだったり野望だったり、その要素を肥大化させて人格化させるという役割も持っているんです。
──ラオウのブーツを磨いて機嫌を取ろうとするザコがいて、ラオウがそいつを睨む。そいつが震え上がるほどビビる描写をすれば「ラオウに媚を売っても無駄」というのが瞬時に分かりますもんね。
たとえば、ザコたち…悪党に囲まれてるケンシロウがいて、それを崖の上から見てるとします。そこで誰にフォーカスをするのか。それがケンシロウであれば、ケンシロウ目線でドラマが進んでいく。視点を変えて見渡すと、ユリアがいた。そのユリアのもとに行こうと崖を下りるんだけど途中で違う人にすれ違う。その人に気を取られてるとユリアがいなくなってたから、その人を追う。
──誰を見るかによって、ひとつの光景がどんどん変わっていく。
そうです。自分がフォーカスを合わせてる人。それは単にその人を見てるだけの話。フォーカスを変えれば違う人に目が行くんです。結局、すべての人が主役なんですよね。ただ原作だとそうはいかない。ラオウとケンシロウの闘いを軸にしないと。
──そこにフォーカスを合わせる。
ええ。でも、元サラリーマンがなりたくもないザコになってケンシロウに立ち向かって殺された場合、彼にとってケンシロウは救世主じゃない。
──そうですね。言われたとおりに立ち向かったらメッチャ強くてボコボコにされた。ただ単に、ハンパなく怖い人にしか見えませんよね。
だから、そういった視点で見るとまた違った北斗の拳っていうものが出てくると思うんですよね。ザコ側から見た「北斗の拳」という世界は、 どういうものだったのかと。まあ、僕なんかはザコキャラとして生きていくんでしょうけどね。あはははは。
──ははは。隣でハイトーンの断末魔で死んだ人がいた。ふと見たらそれがモヒカンの千葉さんで、それにビビってると僕は走ってきた黒王号に踏まれて「かあ!」って死ぬ。
最後に、なにを言いたかったの?
──やはり「カープの優勝が見たかったのに踏むなあ~!!」ですかね。
あはは。でもね。僕がやりたかったのは、そういうことなんですよ。
ザコ側から見た「北斗の拳」という世界は、どういうものだったのかと。
遊び心に見えて(聞こえて)いた数々の断末魔にあった真実に大感動
これまで千葉さんの声…というか、北斗でやっていた断末魔は「ギャグ」。あえて失礼な言い方をさせてもらえば「ノリでやった悪ふざけ」だとばかり思っていた。しかし。今回の語り合いを読んでいただいて分かるように、そこには「ザコ」たちに対する千葉さんなりの愛情、敬意が込められていたのである。バンバン殺されていくザコたちにも人生がある。ひとりひとり、ケンシロウを筆頭としたメインキャラたちと同じ人生がある。そういう見方に感動し、心から感銘を受けました。
パチンコやパチスロにおける千葉さんはケンシロウより強い!?
パチンコ、パチスロにもなっている北斗。そこで使われる千葉さんの声は主に「大当たり」であったり当たりを確定させるような告知であったりするという話に。シンやサウザーなどに負けまくるケンシロウより、千葉さんの声の方がよっぽどアツいんだ…と、ふたりで盛り上がりましたとさ。
Interviewer ガル憎
フリーライター。1974年1月4日、広島県に生まれる。北斗の”第一世代”とも称される生粋の団塊ジュニアかつ原作の公式親善大使で、広島東洋カープファン。原哲夫らとの交流も深く、映画「真救世主伝説 北斗の拳 ZERO ケンシロウ伝」のエンドロールにも名を刻む。好きなキャラクターは、トキ。